学生がお金を負担するのは当たり前? 教育の「受益者負担」とは その②
前回の記事
→『学生がお金を負担するのが当たり前? 教育の「受益者負担」とは その①』
学生がお金を負担するのが当たり前? 教育の「受益者負担」とは その① - 奨学金返済難民のための情報局
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【上昇する学費と世代で異なる負担感】
日本は世界でもっとも大学の学費がかかる国の一つだ。
日本の大学の学費を振り返ると、戦後ほぼ一貫して上昇してきた。国立大学も私立大学もどちらも上昇している。
昭和50年の国立大学の学費は年間で3万6000円だった。
私立大学は18万2800円である。
しかし、現在では国立大学は53万5800円にまであがった。
私立大学は85万1600円(2009年時点)という金額である。
このため、世代によって学費負担度の認識が異なる。
いったいなぜ日本の学費は高くなってしまったのか。
学費を払うのはそれぞれの家計だ。
そこで上の質問は、なぜ家計の負担がこれほど重くなってしまったのか、と言い換えることが出来る。
これまで大学進学は一部の裕福な家庭に関わる話だった。
裕福な家庭の子弟が進学し、進学率も低い段階のことを、高等教育の研究者は「高等教育のエリート段階」と呼んでいる。
どの社会も近代化・産業化が進むことで社会がより複雑になり、高度な知識が必要とされる。
そのため、社会が発展と平行して高等教育の進学率は上がり、それぞれに特徴を持った段階に分けることが出来るのだ。
高等教育の研究者によれば、進学の段階は「エリート段階」から「マス段階」、「ユニバーサル段階」と変化する。エリート段階の基準は、大学進学率が15%未満。マス段階は15〜50%。ユニバーサル段階は、大学進学率が50%以上を指す。
先進国の大学進学率の平均は62%である。
その中でも日本は51%で、これは「ユニバーサル段階」にある(2012年時点)。
一般に進学率が上がると高等教育が質的に変化する。日本でも「ユニバーサル段階」に進むに連れて、大学が新設されたり、奨学金制度が(借金であれ)拡充されるなど、大学を取り巻く構造が変化した。
しかし、エリート段階から現在まであまり変わらなかったこともある。その一つは、大学教育に対する人びとの意識だ。大学に通うのは一部の特権的な人であって、暇と金に余裕がある人は通ってもよく、そうでない人は通ってはならないとする意識だ。
ここに「受益者負担」が浸透する余地が生まれる。大学教育は一部の裕福な人ためにあるものだから、その負担は個人・家庭で行なうのが当然だ、という理屈が説得力を持つ。
【「受益者負担」を乗り越える】
ところが、前回の記事で明らかになったように、学費の負担は絶対不変の理論から導きだされるわけではない。
客観的な理論よりも社会が持つ教育に対する価値観(教育の利益は個人に帰属するか、それとも社会に帰属するか)に基づく政治的力関係によって決まる。言い換えると、人為的な要因によって決まるのだ。
では、2014年現在の私たちがより低い負担の教育と、より充実した奨学金制度を求めるためにはどうしたら良いのだろうか。
そのためには私たちの中に浸透する「受益者負担」についての正しい理解を持つことが鍵になる。
今回も『現代学校教育大事典④』ぎょうせい、1993を手がかりに受益者負担について考えてみよう。
【受益者負担論の歴史】
馬場氏は受益者負担が日本においていつ発生したのかの解説をする。
わが国において教育費の受益者負担の原則が登場したのは、1872年(明治5年)の「学制」においてであった。しかし受益者負担では多くの家庭が、負担に耐えられる見込みが無く、また就学率も低下したままであったことから、1879年(明治12年)の「教育令」では設置者負担の原則に切り替えられた。それ以降、設置者負担の原則が、わが国の公教育財政を支える基本原則となった。(『現代学校教育大事典④』ぎょうせい、1993 62ページ)
「学制」とは、明治維新後、欧米のように(国家によって運営される)近代的教育制度を整備するために出された教育法令のことである。
「受益者負担原則」とは別に「設置者負担原則」というものがある。
「設置者負担」とは文字通り、学校を設置した者(政府、自治体など)が費用を負担するという考えだ。
【負担方法の違い】
設置者負担の原則を導入したからといって、学校の設置者たる国、地方公共団体、学校法人が必要経費の全て自己財源でまかなっているわけではなかった。自己財源の他に、受益者負担である授業料、寄付金や法令に定のある場合の補助金(学校教育法第5条)などによって収入を得ていた。(同上 62ページ)
「設置者負担」と言っても、教育の受け手が費用を負担しないということではない。
現在の義務教育でも体操服代や給食代がかかるように、部分的に家計からの支払いが行なわれることがある。これは、「受益者負担」といっても「設置者負担」が無いわけではないことと同じである。
また、「設置者負担」は国民の税金で費用が払われるということである。間接的には教育の受け手がその費用を払っていることになる。
「受益者負担」と「設置者負担」の違いは、教育の受け手が直接に費用を支払うか、それとも国民が税負担によって間接的に負担をするかの違いに求められると言える。
受益者負担の問題点は、義務教育諸学校における保護者負担教育費の存在と、進学率が約4割に達している高等教育における国公立学校との私立学校との間にある授業料の格差に顕著にみられる。(同上 62ページ)
前段は無償のはずの義務教育における保護者負担の存在の指摘、後段は片方が負担が少なく、もう片方が負担の重い、高等教育における国立・私立間における授業料の格差の指摘である。20年以上前に書かれたものであるが、その指摘は現在も変わらず有効だ。
【私たちが知っておくこと】
最新の研究では「受益者負担」を学制に求めるのは無理があると言う意見もある。
しかし、私たちは専門家の議論に深入りする必要は無い。
ここに書かれた馬場氏の記述は通説であり、20年以上経った現在でも私たちに様々なことを教えてくれる。
私たちがここから学んでおくべきことは、
①学費は理論的にではなく、人為的に決められている。
②日本の高等教育は「ユニバーサル段階」を向かえ、学費負担のあり方も従来から変わる必要がある。
③「受益者負担」意外にも「設置者負担」という発想がある
④両者の違いは教育を受ける者が直接に費用を支払うか、国民が税金で間接的に費用を負担するかの違いに求められる。
ということである。
「受益者負担」には「自己責任」と相性が良い面がある。
すでに家計は我が子の教育費のために貯蓄を切り崩したり、支出を切り詰めたりと様々な「無理」を重ねて来た。
子も、今や大学生の二人に一人が何らかの奨学金を利用し、「負債を背負った労働者」としての学校卒業を余儀なくされている。今、私たちの「自己責任」は限界を迎えている。
「受益者負担」に潜む「自己責任」の危険性を認識することで、より学生に適した大学教育のあり方を構想することが出来る。
- 作者: マーチン・トロウ,天野郁夫,喜多村和之
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