学生がお金を負担するのが当たり前? 教育の「受益者負担」とは その①
教育にかかる費用、とりわけ大学の学費の高さは様々な問題を生んでいる。
学生時代からブラックバイトに追いつめられたり、
そもそも進学を諦めたり、
奨学金の返済を行なうためにブラック企業を辞めようにも辞めれない
そんな10代、20代、30代がいま増えている。
「学生を潰すブラックバイトの厳しく過酷な実態」
http://matome.naver.jp/odai/2137601988394393401
その親達も決して学費の高さから無縁でいることはできない。
我が子の大学進学のために老後の資金を切り崩す家庭や、
地方から東京の私立大学に進学を目指す子どもを抱えて戦々恐々とする家庭、
年金暮らしの祖父母世代に孫の学費をカンパしてもらう家庭。
子どもの大学進学費用を貯めるためのハウツー本は毎年のように出版されている。
学費の負担は日本社会の中に確実に根をはっている。
【なぜ私たちは学費を払うのか】
ここでは話を大学に限定しよう。
なぜ、私たちは年間にしておよそ50万円以上の学費を負担しなければならないのか。
なぜ、一年の半分近くは休みである大学教育にそれほどまでのお金がかかるのか。
その答えを考えてみようと思う。
私たちは大学教育において「受益者負担」の発想を元に学費を設定されている。
そこで、今日のブログで考えるテーマは教育における「受益者負担」にした。
【受益者負担とはなにか】
『現代学校教育大事典』ぎょうせい、1993年 の「受益者負担」の項目を手がかりに考えてみよう。
そもそも「受益者負担」の意味とはどのようなものなのか。
それについて、「受益者負担」項目の執筆者である馬場将光氏はこう説明する。
受益者負担とは、国または地方公共団体が事業を行うときに、そこから特別の利益を受ける者に対し、その事業の経費の全部または一部を負担させることを言う。こんにち、公共サービスの受け手が、平等の原則上、サービスの量と質に応じてその対価を租税、料金、使用料、手数料などの形で負担し、必要な経費の一部をまかなうところにみられる。『現代学校教育大事典④』ぎょうせい、1994年、62ページ)
教育における「受益者負担」は
「教育を受ける本人に教育の効果が帰属するから、利益を得る者が授業料などの対価を支払うのは当然だ」
という論理(ロジック)になる。
ここで少し立ち止まって考えると、私たちは小中学校が無償の義務教育で提供される社会に生きている。
確かに、日本の小中学校でも、給食代や習字セットなどの教材費がかかり、完全な無償が実現出来ているとは言えないが、それでも「受益者負担」によって学費をとられることは無い。
高校にあがると授業料がかかる場合が出てくる。大学に進むとほぼ確実に授業料を支払わなければならない。
なぜ小中学校は無償の教育で、高校や大学では学費を支払う必要があるのか。
馬場氏は、教育の「受益者負担」そのものが論理的に理論的に導かれるものではなく、政治政策的なものであるという指摘をする。
教育費を誰がどれくらいの割合で負担するのかの問題は、その時代、社会の価値観の影響を受ける。教育の利益が個人に帰属すると考える社会と、教育の利益が広く社会一般に帰属すると考える社会とでは、教育費を負担する者とその割合は大きく異なる。その実態は理論的であるというよりは、むしろ極めて政治政策的である。(同上、62ページ)
教育費を家庭がどれだけ負担するかの社会的な合意は、国や文化によって異なる。
「受益者」がどれだけ負担するかは、理論的に決まるのではなく、その社会においてある時点に、学費を課そうとする者とそれを拒否しようとする者との間の政治な力関係によって決まるからだ。
このうち、どの段階までの教育を無償とするかは、その社会での意見の強さによって決まる。学費とは静的で理論的なものではなく、動的で人為的なものなのだ。
貧しい家庭であれ、豊かな家庭であれ、日本社会に生きる私たちが高い学費を負担して、みんなが息切れしてツラい思いをしているのは、どれだけの学費負担なら家庭はできるのかという意見が、学費を高くして利益を得たい側に対して有効に伝わっていないからではないのか。
(その②に続く)